八重山・白保の海を守る会(守る会と略)

1995年までの活動と今後について   

                      事務局長 生島 融
目 次
  1. 報告
  2. これまでの活動
  3. 今後の方針
  4. 今後の活動
  5. その他

報告
 新石垣空港の建設地が白保周辺から移動したこともあって、守る会の活動はこの 間、休止状態が続いてきました。そのため事務局の中から守る会は当初の目的を達 成したのだから解散すべきという意見も出されました。しかし白保の海はいまだに 法的な保護地域にさえなっておらず、世界的に貴重なサンゴ群集がいつ破壊の危機 にさらされるか分からない状態が続いています。
 そこで事務局では、さる1995年10月7日に東京周辺の会員の方々に呼びかけ守る 会の今後について討論集会を開きました。その結果、この集会を機に第一次守る会 の活動に区切りをつけ、今後新しい陣容と方針のもと第二次守る会をスタートさせ ていくことになりました。
 以下、当日事務局が提案し、了承された「これまでの活動と今後について」を掲 載します。

これまでの活動
 1979年7月、沖縄県は石垣島、白保地先の海を埋め立てて新しい大型空港 (滑走路2500m)を建設しようとする新石垣空港建設計画を白保住民と何ら話 し合うこともなく決定した。
 これに対し、白保の人々は同年12月の公民館総会で、
  1.海に依存してきたくらしが壊される
  2.豊かな自然が破壊される
  3.騒音公害が危惧される
  4.新空港の軍事利用が懸念される
  5.地元住民との話し合いもない一方的な決定は問題

などを理由に全会一致で新空港建設反対を決議した。これがその後、十数年にわた る激しい反対運動の始まりとなった。
 しかし当初は白保住民の訴えは島内の新空港待望論の大合唱の中で、本土はもち ろん沖縄県内でも大きな声とならず、県の建設へ向けての作業は着々と進んでいっ た。1982年3月には運輸省が新空港建設を許可、同年9月には白保住民の強い抵抗 にも拘らず機動隊を本島から導入して測量調査が強行された。また翌1983年9月に は当初反対だった八重山漁協との間で漁業補償も成立、着工までの残る手続きは沖 縄県知事による白保の海(公有水面)の埋立て免許だけとなっていった。
 八重山・白保の海を守る会(以下守る会)は、このように白保の新空港反対運動 にとっては非常に追いつめられた状況の1983年12月に、白保の人々を支援し白保の 豊かなサンゴの海を守るために発足したのであった。
「ここまで手続きが進んでいては見直しなどムリな話」と多くの人々に言われる中 での厳しいスタートであった。
 守る会はまず、この問題を全国の多くの人々に知らせるため「サンゴの海を守る 4万5千人署名」に取り組んだ。そして翌1984年2月には白保や那覇からの代表者 の参加を得て初めて集会を開催。この集会はテレビでもニュース報道され反対運動 の拡がりの端緒を開いた。この時、地元の人々とともに関係の政府省庁や国会議員 へ初めての要請行動を行い、白保の人々の生の声をぶつけた。
 以後守る会は、県を指導する立場の中央官庁が集まる東京、情報の発信源として 全国への影響力の大きい東京という地の利を生かして精力的に新石垣空港反対運動 を展開していった。これまでに署名運動は4回、開いた集会や講座、イベントなど は約50回、そして関係省庁や国会議員らに対する要請は数限りなく行い、国内外 の世論の形成に大きな成果をあげ、また関係省庁に対しても少なからぬプレッシャー をかけた。
 また、1985年秋には石垣島の人々の“新空港幻想”を打破するため著名な経済学 者に委託して経済アセスメントを実施、石垣市民にあらたな問題を提起した。この 活動は調査に参加した経済学者だけでなく県内外の良識ある多くの研究者を新空港 反対運動の中に引き込むという予期せぬ成果もあげたのだった。
 さらに1986年8月には、白保現地や那覇の守る会が中心に進めた一坪共有運動 (予定地の陸上部分に取得した土地を全国の人々で共有し空港用地としては売らな い運動)に積極的に協力し、一坪共有者の約半数800人の一坪地主を守る会で集めた。  これらの運動が中央官庁にインパクトを与え、翌1987年8月、環境庁は県に計画 の変更を求めた。その時まで強行突破の方針を崩さなかった沖縄県もやむなくこれ を受け入れ、同月末には当初計画の南端500mをカットする変更案を発表した。しか しこのような小手先の変更では白保の海は守れないと守る会は運動の継続を確認。 1988年2月には、他団体と協力して国際自然保護連合(IUCN)総会に代表団を 派遣した。ここで白保サンゴ礁の保護が決議され、これによって海外の世論は一気 に盛り上がり、白保のサンゴ保護は国際的な問題となった。そして環境庁もようや くその重い腰をあげ、白保や新奄美空港周辺海域の独自サンゴ調査を実施すること になった。
 このようななか、沖縄県は1989年4月、突然新空港の建設地を白保から北へ1.5km のカラ岳東地域に移動する変更案を発表した。これに対し守る会は同海域のサンゴ 調査を実施、新予定地も白保と同一生態系の海で最大規模のサンゴ群落が存在する ことを明らかにした。これにより反対運動は再び続けられることになった。
 守る会では同年秋から国内外の世論を再度喚起するための意見広告運動に取り組 んだ。
 そして同年11月には、世界的な科学雑誌『ネイチャー』に、翌1990年4月には 『ニューヨーク・タイムズ』にそれぞれ「白保の海を守れ!」の意見広告を掲載、 海外から600通を越える手紙が日本政府に送られた。また同年11月には各地のグルー プと協力して再びIUCN総会に代表団を派遣、日本政府にカラ岳東案の見直しを 求める決議を再び採択させた。
 1990年12月、これまでの西銘知事に変わって大田昌秀氏が新知事に就任。大田氏 はカラ岳東案を含む5案を再検討し住民の合意形成を図って最終的な建設地を決定 する方針を打ち出した。
 建設地の合意形成が紛糾しているなか、守る会は1992年2月、白保の海を世界の 遺産に登録していく署名運動を開始、同年6月には『朝日新聞』に署名欄つきの意 見広告を掲載、また県紙2紙にも大阪の弁護士グループとともに意見広告を出し、 「白保の海を世界の遺産に」を訴えた(1995年4月には『ニューヨーク・タイムズ』 にも同様の意見広告を掲載)。
 同年11月、大田知事は新石垣空港の建設地として石垣島内陸部の宮良牧中案を最 終選定した。1979年7月の白保海上案発表以来、実に13年余3回目の変更にして ようやくその建設地が白保海域から離れたのであった。白保現地や各地のグループ の独自の、そして連帯した闘いの総和によって日本の住民運動としては稀有な計画 案の全面撤回を勝ちとったのである(その後、宮良牧中案は地元の激しい抵抗で県 は調査さえできず、先行き不透明な混沌とした状況が今もなお続いている)。


今後の方針
 ところで守る会は主に、
 1.公共(多数)のためという美名の下、地元の人々(少数)と話し合いもせず
   に空港建設を強行しようとする沖縄県に抗議し、白保住民とともにその計画
   を白紙撤回させる。
 2.白保の豊かなサンゴの海をそのままの状態で後の世代に残していく。

という目的を持つ人々が集まり結成されたのであった。
 1992年11月の宮良牧中案への計画変更は、前者の立場からいえば当初計画を完全 に撤回させたわけで、その目的は100%達成されたといってよい。また後者につ いても白保の海の空港建設による直接の破壊はなくなったわけで、当初の目的はそ れなりに達成したといってもよいであろう。しかしこの十数年の運動の中でさまざ まな調査が行われ白保の海は白保の人々に恵みを与える豊かな海というだけでなく、 世界的に貴重なサンゴが群生する海であることが明らかになった。これに従って守 る会に参加してくる人々の意識も少しずつ変化し、白保の海を破壊する空港建設に 反対するだけでなく、あらゆる開発から白保の貴重なサンゴの海を守っていきたい というようになっていったのである。それは守る会が1992年から「白保の海を世界 の遺産に」というキャンペーンを展開していることからも明らかであろう。
 先の事務局会議では当初の目的を達成し、運動としては成功したのだから、また さまざまな個人的事情により事務局機能も弱体化しているのだから、守る会の活動 に幕を引いてもよいのではないかという意見が出された。
 これに対して、
 1.今、会を解散するのは特にあとから「あらゆる開発から白保の海を守り後の
   世代に残したい」として運動に参加してきた人々に対して責任がとれない。
 2.すぐにも別の開発計画(白保は現在、特別な法的保護区域になっていないの
   で一定の条件さえクリアすればマリーナ建設や海岸部でのゴルフ場造成など
   自由にできるのである)で白保の海が破壊の危険にさらされる恐れがある。
 3.そうなれば、守る会の十数年の努力はいったい何だったのか、何のために十
   数年間この運動に時間と労力を費やしてきたのか悔いを残すことになる。
 4.せめて国内法や国際条約の下で白保の海が保護されるようになるまで(その
   メドがつくまで)運動は継続すべきだ。

などの意見が出された。さらに宮良牧中案で建設された際の白保の海への赤土の流 出の監視や島内に今もなお根強く残るカラ岳東案への回帰阻止、そして、今すでに 直面している轟川から流入する赤土や観光公害などによる白保の海の破壊に対処し ていくためにも会の存続は必要という声も出された。
 これらの話し合いを通じ、事務局会議の結論として守る会の活動は宮良牧中案へ の変更で一応の区切りをつけることにし、その後は引きつづき運動をしていこうと いう人々が、二期目の守る会として主に「白保の海を後の世代に残していくために、 白保の海の恒久的保護策(白保の海を世界の遺産に)」を求め
て活動していくことになった。

 以上をまとめると、
 1.守る会のさまざまな活動は国内外の世論を大きく盛り上げ、沖縄県や関係省
   庁に多大な圧力をかけた。その結果、新石垣空港計画の白紙撤回を勝ちとり、
   守る会の当初の目的は達成された。
 2.白保の海の調査がすすみ、また運動が拡がるにつれこの運動を支援、参加し
   てくる人々の意識(目的)は、新空港建設だけではなく、あらゆる開発から
   白保の海を守り健全な状態のまま後の世代に残していこうというものに変化
   していった。
 3.白保の海は今だ法的に保護されておらず、いつ他の開発等によって危機に晒
   されるか分からない状態が続いている。
 4.守る会は当初の目標を達成したのでこの集会をもって区切りをつけ、今後は
   第二次守る会として「白保の海を後の世代に健全なまま残していける恒久的
   保護策の確立」をめざし活動していく。


今後の活動
 あらたな目的を実現するため次のような活動にとりくむ。
  1. 白保サンゴ礁生態系全体を法的な保護地域にするとともに同海域の「世界遺産」登録に向けて活動する。
  2. 新石垣島空港問題の推移を注視し、白保サンゴ礁に脅威を与える動きが出てくれば、ただちにこれに対応した活動を展開する。
  3. 白保の海がいま直面している脅威に対してもその問題解決をめざして活動にとりくむ。

その他
 1.会費は年間2千円とする(これまで通り)。会費はあくまでも守る会運動の
   経済的基盤を支えるためのもので会報の購読料ではない。
 2.会報の発行は年2〜3回として状況に応じて追加発行する。会報の送付は
   原則として会費、またはカンパ納入者に限る。

住所:〒272-0802 市川市柏井町1−1609−4−102
電話:03-3220-3529(留守録、FAX兼用)(不在の場合、留守録にメッセージの録音をお願いします。)
(住所と電話の局番が不一致となりますが、別の場所であり間違いではありません。)

会費、カンパの振込先口座番号:00100-3-187019 八重山・白保の海を守る会
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